腐りかけが一番美味いのかも?
もう11月なんですってよ、やーざますわね~!
時を駆けるおばはん、逃げ足と終電を追う足だけはとっても速いの。
てなわけで既に先月になりましたが、宝塚一「ハエ叩きとゲテモノスーツ」が似合うユウヒ様を拝みに青年館へ行って参りました。
ところで石田先生ったらいきなり面白いんですのよ。
「石田作品だって、針で目を突きバチで殴られ階段から転げ落っこち、…柴田、正塚作品に負けず劣らず危険な愛を描いてる!」
とか言ってみたところ、
「同じ危険でもリスクとデンジャラスは違う!」
とスタッフの方に注意されたなどという爆笑エピソードをプログラムの中でご披露して下さって。
きついご冗談はさておき。(え?石田先生はマジですか?)
先生はプログラムにて、作中人物たちの人間関係を
「依存の糸を断ち切れない人の物語」と、ご説明されていました。
そう思って銀四郎とヤスの関係を見なおしてみると、確かに彼らは加虐者被虐者の関係でずるずると共依存しているように見える。
一度意識すると、もはや二人の関係はそうとしか見えなくなってくる。
…ってそれ、心の病の一歩手前じゃーん!!
初演を観たとき、そこまで思い至らなかったのは、私が若かったからなのでしょうか。
十二年前、久世さんが演じた銀ちゃんは、ヤンチャさの中にもじめじめとしたウェット感があり、若干落ち目の中年男のネジけぶりがよく沁みこんだ銀ちゃんだったように思うんです。
欲もコンプレックスもタンマリ抱えているのがスーケスケ。殴る蹴るのボーリョクも一切の迷いが無くて、いっそ爽快。
そんな「王道」の銀ちゃんに対して幸さんが演じたヤスというのが、「新劇上がりの元インテリ臭」がそこはかとなく漂っているようなヤスで、崩れているようでいても、どこか堅気な臭いがするタイプ。
大好きな銀ちゃんに殴られ蹴られ、それでも銀ちゃんを男と慕い付いて行く。
…そんな自分の被虐趣味を客観視している自分が右斜め上あたりに居る感じ。
銀ちゃんへの思いも小夏への想いも、もはや虐げられる男の負の美学、という感じすらしないでもない。
そんな風に、激しく屈折しつつも正気なヤスだけに、階段落ち前夜に見せたヤスの突然の暴力がとてもとても恐ろしかったんです。
興奮が治まった後、膝を抱えて背中丸めて切ない胸の内を小夏に語る姿が、とてもとても心に沁みたんです。
銀ちゃんや小夏への溜まりに溜まっていた負の感情が弾けて人が変わったように粗暴になったヤスのやりきれなさや、マジメな人間が突如キレた時の重みがズシンと響いたように思うんですよね。
対して今回のお芝居はどうであったか。
ユウヒ氏の演じた銀ちゃんはカラっとしていて明るく、それなのにどこか乾いた孤独感のある銀ちゃんでした。
でもユウヒ様の銀ちゃんったらメチャクチャすらっとしていて美「青」年だしぃ~、ゲテモノスーツが最新モードか?と見まごうほどに超キラキラしてるしぃ~…いえ、別に初演と比べてとかそういうことじゃなくーーー。(←このイイワケがむしろドツボ)
ユウヒ氏の銀ちゃんはお子ちゃま的ヤンチャパワー全開でさらりと身勝手、無反省。だからこそホントーに憎めない。
そしてそのように、「赤ちゃんダダっ子王参上ーー!」みたいな、いっそ保護欲さえそそられる銀ちゃんにべっとりと付き従ってボカスカと被虐されている華形氏のヤスなんですが。
これがもう、とってもとってもウェットな感じなんです。キノコ生えるくらい湿ってる上に軟体動物?と思うくらいに態度がのらーんとしてる。ヨレヨレの猫背に卑屈歩き、太すぎる眉など、最早元が二枚目系とも思えぬ凝ったイレモノ作り。
もしもこのヤスと道ですれ違ったら、「是非とも避けて通りたい人」オーラ抜群。
ルックスもハンパない作りこみで大したものでしたが、今回のヤスに一番感じたもの、それは「ウツロさ」なんです。
自分の心内に抱えている空ろさ(なんで空ろなのかは知らんけど)を、銀ちゃんと小夏との歪んだ関係で埋めよう、埋めようとしているように見えて仕方ない。
心底マジで銀ちゃんとの関係性にべったりと依存して生きているように見える。そこに自分の居場所を求めてやまないっぽい。
んなもんだから階段落ち前夜、最近ちっとも自分の期待通りに「暴力ボカスカで冷たく接してくれない銀ちゃん」に憤懣爆発して、小夏を相手に暴れている姿を見ても、
「あーねー。このヤスはやるねー、いつかやると思ってた」
と、客観的にこちらは納得させられてしまうという。
それがむしろ不気味で、とっても恐ろしかったのです。
おそらく、私が大人になったことをさておいても、再演の銀ちゃんとヤスの方がより、人間関係の異形さに焦点を当てたつくりになっていたように思うんです。
そしてこの方が多分、今の時代に合っているように思うんです。
石田先生はこの二人の関係を「依存と束縛」とも仰っていたのですが、原作者のつか先生は「腐れ縁」と仰ったそうです。
もしかすると初演の方がつか先生の意図したところには近いのかも知れません。
銀ちゃん、ヤス、二人ともどこかが決定的に卑屈でコンプレックスだらけの人間だけれども、彼らなりの映画人としての美学、男同士のちょっとヘンテコで困った友情が綺麗にフォーカスされていて。
いずれにせよ、銀ちゃんとヤスの関係のややこしさ、いや、ヤスという男のややこしさ!!は初演でも再演でもただごとでないことだけは確かです。
ボカスカされようが身重の愛人を押し付けられようが、銀ちゃんを慕いワガママぜーんぶを受け入れ続けるヤス。
一見、ドSとドMの、需要と供給が合致した名コンビにも見えるこの二人。
しかし蓋を開けてみると、ヤスの度を越した献身で逃げ場がないほどに束縛されていたのは、実は銀ちゃんの方ではないかいな、と。
「階段落ち」なんてやったところで、誰の心が一番満たされたのか、と。
どんなに酷く扱われても相手に尽くしてしまうのは、孤独感からなのか、自尊心の激しい欠落か。
本当にこの作品は笑って泣いて、深く考え込んで…。
ド派手でお下劣で浪速節チックな外観によらず、かなり手強い作品でございました。
ここのところのバウもの再演ラッシュってどうなんだろう??と思っていた折、こうやって色々と違いを楽しめる良質な再演ならば悪くないな、とウッカリ思わされてしまったワタシってばなんとまあ、チョロいお客でしょうか。
きっと銀ちゃんでなくとも誰もが生まれた時既に、背中に孤独の「孤」の字を背負っている。
ところが、過剰に親密であることが友情や愛情、信頼の契約書だとでも言うように、ジリジリと相手との間合いを物理的に詰めて擦り寄らずには居られない人も結構多い、なんてなことに気が付いたのは、確かに最近のことです。
孤独を怖れる人達がチマタに溢れているからこそ、SNSなんてな「親密感醸成装置」が流行ったりするんでしょうね。
石田先生、ある意味すごいじゃん、今回の銀ちゃんてば時代を読んでるじゃん!!(ち…違うかも。)
というわけで。(どういうわけだい。)
人間関係も「腐りかけ」が一番美味いからこそ、こんなややこしい関係の依存症になる人々が居るのかも、知れません。


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